『ボストン市庁舎』鑑賞 Part.2

『ボストン市庁舎』について、最も特筆すべきことをPart.2としてシェアしたいと思います。

この映画には背景音楽やナレーションがありません。274分間流れるのは、市役所のスタッフたちと市民たちの対話、意見交換、時にはぶつかりあいと、ボストンの街並みだけです。

何が274分の映画で人を夢中にさせるのか?と考えていたところ、もちろんウォルシュ市長も素晴らしいのですが、自分の生活をよくしたい、この市をよくしたい、この社会をよくしたい、と根本から変革しようとする人々の心の底から希望や理想を持って、対話が繰り広げられるシーンです。それは、あらゆる問題となるセクションで繰り広げられます。教育、ドラッグ、ホームレス、住宅問題、等々。彼らの議論は見ていて非常に興味深く、魅力的でした。

またもう一つ印象的だったのは、同じ空間に見た目も性格も多様なパーソナリティを持つ人々が集まる中で、誰一人として見た目で人を判断しようとしていないことです(あるいは、アメリカでは人種差別的な発言はご法度で、人々が極力触れないようにしているとも聞いたことがあります)。

例えば、役所と言えば、日本お堅い雰囲気がありますが、そういったパブリックな組織・空間にも関わらず、、ボストン市庁舎のスタッフたちは自分の好きなものや好きなことで自分を表現しています。髪色、服装、アクセサリー、タトゥー、メイクなど。

日本では到底、考えられません。会社に突然ピンクの髪の毛でいって鼻ピアスとかしてたら、上司に注意されるでしょうし、周りからもアイツついにイカれたな!?と距離を置く人も中にはいるでしょう。

でもアメリカでは、人にどう思われるかなんて doesn’t matter! という、その国土の雰囲気が「人は人でみんなそれぞれ好きなように生きている」前提が染み込んでいて、「勝手にやってくれ、迷惑をかけない限り」というのが伝わってきます。

そして、もう一点強調したいのは、登場するどの市民も、物事の考え方や伝え方、議論の仕方が驚くほどしっかりしていることです。社会的に弱い立場にあるような人でも、具体的な数値を出しながら相手へ反論する様子を見ると、日本では全てのエリート層でもこれほど的確に物怖じせず、論理を展開できるだろうか?と圧倒されます。

これは数学者の藤原正彦氏がその著書『若き数学者のアメリカ』でも触れられていましたが、↓

小学校から高校までの間に、学校では何を教えていたのだろうか。人に聞いた話を総合すると、アメリカの学校では、知識を詰め込むことよりも、「いかに他人と強調して仕事を進めるか」とか「いかに自分の意思を論理的に表明するか」とか「問題に当面した時、どう考え、どう対処して行くか」とか「議論においてどう問題点を掘り出し展開するか」などといった基本的なことに教育の重点を置いているらしい。そのせいか、地図上で日本をフィリピンと間違えるようなハイティーンの小娘でも、議論になると滅法強い。考えがきわめてしっかりと練れており、言い表しかたも論理的であるし、そのうえ、相手の弱点を衝久野が巧い。…(一部略)…暗算がロクに出来ない主婦でも、考えることは驚くほど堅実でしっかりしているし、政治家やスポーツ選手などのインタビューを聞いてみても確かに明晰で、筋の通った話をする。平均的な日本人とアメリカ人を集め、知識に関する試験をしたらアメリカ人が劣等に見えるだろうし、話し合いになったら日本人はまるで太刀打ちできない。

藤原正彦「若き数学者のアメリカ(新潮文庫)」

アメリカすげーな。。

この本の発行は昭和56年、今から40年前ですが、映画からは今のアメリカ人もアメリカの教育も、アメリカの歴史的背景やその文化・宗教・人種の多様性があるからこそ、他人との関わり方・伝え方・議論の仕方が時代を経た今もこれからも人々に浸透され、浸透されていくのではないでしょうか。

Part.1については下記より。

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